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木材タイトル

隅田川に架かる永代橋を渡り、当時、木材の代名詞と言われた富岡町、木場、深川一帯は木材の集積地して全国の木材が集まり、生産地専門の問屋が製材したばかりの新しい木材の積荷を次々と下ろし、道路に大量にはみ出している光景があちこちで見られ、繁栄の道を歩み活況を呈していました。

その一方では時代の進歩と共に建築様式も変化して、2倍法(2×4)の木質系プレハブ住宅、軽量鉄骨系プレハブ住宅、コンクリート系プレハブ住宅へと量産化・不燃化が進み、加えて価格が安く、扱い易く、狂いの少ない輸入外材の使用割合が多くなり、更に接着剤の進歩で構造材の柱、床材、造作材までもムクの高級材に見せるために、芯には外材、表面に高価な内地材のつき板を貼った積層材(合板)が多く使用されるようになる等と次第に内地材の用途が圧迫され始め、木材企業の寡占化が進み淘汰が始まり、戦後最高の好景気の折り返し点が昭和50年代にやってきます。

檜木目1

そして一気に不況の時代に突入し、各地の多くの製材、木材業者が姿を消すと同時期に都内各地に数多くあった木材市場も郊外周辺へと移転し、現在都内から姿を消し、新時代の建築様式の変化と長期間続く不況のために現在でも木材価格は低迷しています。
ちなみに、戦後から今日迄の木材価格のピークは昭和55年でした。現在は(商品によって違いが有りますが)檜の角材で約半値、外材を含めたその他で15~35%下落となっています。

ところで、話を本題に戻しますが、戦後の木材供給の一翼を担ったのが木材市場の出現です。昭和25年木材の配給・価格統制が廃止され、内外の木材需要を満たすために関西に引き続き横浜・川崎・東京・そして全国へと相次いで木材市場会社が、同様に全国各地の木材集散地には原木市場会社が誕生し発展しました。この仕組みは木材市場会社が有力な内外木材問屋・生産地の製材工場などを浜問屋として迎え、市場会社が場所を提供して全国各地から木材を集荷させて卸・小売業者を集めて「セリ」方式で販売するもので、築地の魚市場・ヤッチャ場と同様の方式です。

この「セリ」方式は体積が1石・面積が1坪の売買単位で行われ、「セリ子」の周りに買い手が集まり片手を掲げて声を張り上げ、寸時にセリ落とされ商談成立となります。昭和36年メートル法が導入され体積が㎥・面積が㎡となりました。 市場での仕入れは売買実績を積み重ねて、早く自分の顔と名前をセリ子に覚えて貰うことが必要であり、どうしても手に入れたい商品は、セリの始まる前にセリ子と予め単価の打ち合わせをしておいて、タイミングよくセリ落として貰うなどと、セリは戦場のようなもので、化かし合いでもありますが、真剣そのものであります。
良心的な商品であっても一時製品の天然品であるが故に、一つ一つに商品の差があり、工場生産の画一化された二次製品とは違い、当たり外れがあり、商品を見る目、見抜く目が必要のために仕入れは難しいですが、その反面、大変面白い商売も出来ます。

檜木目2

「セリ」に掛けられる商品の種類も6mの長尺物から重量のある平角(イタゴ)迄、構造材、造作材、各種の平割り材・板材及び梁に使われる松丸太等と多品種に及び一瞬にして価格が決まりますので、商品を買い付けるにもあらゆる商品相場を頭に入れて覚えていなければなりません。又、計算方法が体積と面積を出さなければ単価が出せないために、仕入れ頻度の高い商品の単材積を出来るだけ数多く記憶しておいて頭で直ぐ単価が出せるように心掛けます。